臓器提供について考える。

意識回復の見込みがなくて、呼吸器で息をしている、という
状態になって、そうしたらどうして欲しいか、という話を
夫としていたのですが、必要以上の延命措置はとらない方が
いいかなぁ、使える臓器があるならば何でも全て提供した方が
いいね、という共通の意見。


でももし自分が残される側になった場合、呼吸器で人工的に
呼吸をしているだけで自力ではない、という状態でも、
意識はなくても、回復の見込みはなくても、病院ベッドに
横たわっている家族は触れれば温かい。呼吸器を外してしまうと
温かくなくなり、「身体」はそこに置いておくわけにはいかず
荼毘にふされたりなんかして「現実としての形」はなくなる。


声をかけてくれたり、触れ合ったり、ものを感じたりすること
がない状態でも、体温はあるわけで。一緒にたくさんの時間を
過ごした形(身体)がそこに存在しているわけで。


単なる自分のエゴで、死んでるのに生きてるみたいにされてる
人の意思や負担や辛さを無視していることであるかもしれない
けど、機械を止めてしまうという決断は私にはできないなぁ。
自己欺瞞かもしれないけど。ドキュメンタリーとかでよくある
「だって生きてるじゃないですか!」という気になるかも。


臓器提供するということは、悲しむ暇もなく遺体が解剖に回され
臓器を取り出される。まだその身体は仄かに温かいかもしれない。
もう使わない臓器を活用してもらって助かる人、負担や悲しみが
軽減できるだろうその家族がいる、というのは素敵なことだし
できればそうしたい、と、いま元気に生きていて現実として
あまり具体的に思い描けない状態だと思うけど。さっき大きな
決断で呼吸器を止めてしまった家族の身体が切られてバラされて
というのはかなり勇気がいるし、辛いことなんじゃないかと思う。


考えても答えが出ないので(決めててもきっと現実となったとき
いろいろ思って、その通りには出来なそうなので)考えるのは
やめて、そのときに考えることにする。うん。